敬愛する教え子に「知られたる我」の慰めと励まし

敬愛する教え子に「知られたる我」の慰めと励まし

★私は、「教え子」から学んできました。

その一人は、大和昌平からです。聖書解釈の授業で、私なりに、様々な資料を配布しながら進めていきました。しかし文字通りのノートを書き下ろしてはいませんでした。あるとき、大和神学生のノートを見て、びっくりしました。コピーさせてもらい、それ以後の授業で活用させてもらいました。

 今、クリスチャントゥデイについて、なんだらかんだらと言われたり、書かれたりする場合があります。時に「偽証」と言わざるを得ない記述も見ます。しかし、基本的に私なりに、意気軒高です。

 それは、敬愛する教え子に「知られたる我」の慰めと励ましているからです、感謝。

宮村先生とドストエフスキー

 大和昌平

  1 宮村先生の「聖書解釈学」講義ノート

 東京基督神学校で受けた宮村武夫先生の講義ノート「聖書解釈学」(一九八二年)を書棚から取り出し、開いてみた。手書きの「クラス・スケジュール」の懐かしい文字が、昨年北大図書館で直筆書簡を見た内村鑑三の字にどこか似ていると思う。宮村先生の講義は予定がしっかりと組まれていて、全体像がわかった上で毎回の講義を受けることのできる几帳面なものだった。しかし、「早くもっとふさわしい先生がこの講義を担うべきだ」と繰り返し言われたことに違和感を覚えた。自分はふさわしくない教師だと言われ続けた教室で、説教者として聖書を解釈するためのまとまった知識を私は与えられた。知識というよりも、聖書を解釈しつつ生きる人間の生きざまを宮村武夫先生に見せていただいたのだと思う。いくぶん恥じらいを含んで、しかしだんだん熱く語られるその姿からは、神の前に自分は何者でもないのだというメッセージが滲み出ていた。

 

二〇代の私が万年筆で書いた「聖書解釈学」のノートは紙が黄ばんできている。今それを読み返し、

改めて心に残る宮村先生のことばを記しておきたい。

 「聖書解釈とは、生ける真の神のみ声に聴き従うことである。」 

 「聖書解釈学の目的は、自己の聖書解釈の方法論を確立することである。」

 「聖書解釈と《どう生きるか》とは切り離すことができない。真の神を礼拝し、応えていくことを

抜きにして聖書解釈を考えることはできない。我々にとって神の言葉を解釈し、応答することが、す

なわち生きることなのだ。」

 「応答しなければ、神のことばを聴いたことにはならない。神の語りかけに応答していくことが我々

にとって生きることだ。その生き方が変わらなければ、聖書解釈は変わらない。」

 「神の語りかけに応答していく主体として我々は造られている。神との契約関係を結べる主体とし

て造られている。」

 「聖書は古代オリエントの契約形式などの歴史的文脈との比較によって類似性が明らかになればな

るほど、それとの区別性も鮮やかになる。」

 「まず神が語り、それに対して民が応答していった。解釈していった。その構造が聖書のいつの時代にもテーマとされている。だから、過去を見ながら、現在が見えてき、将来の展望がつかめてくるのだ。」

 「聖書解釈の歴史を学ぶ意義は、一貫して聖書を解釈してきた神の民の一員として自分があるのだという歴史的センスを身につけることだ。」

 「旧約聖書の全体構造自体が、モーセ五書をどう解釈し、どうレスポンスしていくか、というもの

になっている。」

 「一・二世紀のユダヤ教徒は字義解釈に立ってキリスト者を批判したが、キリスト者はそれに対して旧約聖書解釈をもって反論した。一世紀も二世紀も、問題は語られた神の言葉への応答であり、解釈であった。」

 「教会はあらゆる時代に聖書を解釈してきた。我々も聖書を解釈し、先達の聖書解釈に共感するこ

とによって、その聖なる公同の教会に属しているのだと自分を位置づけたい。」

 「聖典は閉じられており、我々にとって新しい啓示はない。しかし、過去を知るだけに終わってはならない。現代の社会が見え、将来が見えてこないといけない。そういう意味で、我々は預言者と同じ働きをするのだ。」

 「今の時代において聖書を読むことは、この時代に預言者としての働きをすることになるはずだ。なぜなら、聖書こそ最もリアルなものだから、聖書を読むことによって今の時代がよく見えてくるはずだ。」

「ある聖句を解釈する時、聖書全体との有機的緊張関係を保つという聖書主義に立ちたい。聖書全

体という前提が無いと、必ず他の前提が入ってくる。また逆に、聖書の全体像は聖句の解釈から常に

裁かれていくという緊張関係を保たねばならない。」

 

 読み返すことで、聖書解釈者として歴史的伝統に立って、この時代に生きるべきことを訴えてこら

れた宮村先生の変わらない姿勢を改めて思わされる。このクラスの試験問題は「聖書解釈者として現

在また将来何を備えるべきか」、「聖書解釈における私の位置」の二題であった。試験時間の3時間をかけて書いた答案用紙もファイルしてあるのだが、そこには宮村先生が太い鉛筆で定規をあてて下線を引いたり、二重丸をしたり、波線を入れたりして丹念に読んでくださった跡が残っている。そのように宮村先生は神学生の一人ひとりに接してくださった。

  2.ドストエフスキーを介しての宮村先生との再会

 一九八四年春に東京基督神学校を卒業した私は、自分の所属する福音交友会の京都聖書教会の牧師

に赴任し、そこで二五年間働かせていただいた。その間、宮村先生との個人的接触はほとんど無かっ

た。しかし、思いがけないことから宮村先生との再会の機会が訪れた。月に一度開いていた家庭集会で、中村健之介著『ドストエフスキーのおもしろさ』をテキストに学んでいる時だった。この本は岩波ジュニア新書シリーズにあるのだが、ドストエフスキーの作品から短いフレーズを取り上げた秀逸なエッセイ集になっている。ドストエフスキーの言葉から聖書の真理を学ぶことができないかと模索している時だった。

 

ふいに宮村先生から電話があり、週日に京都に行くことになったので会えないかということだった。

私はとても嬉しく思い、ちょうどその家庭集会の日であったので、ドストエフスキーについて話して

もらえませんかと何も知らずにお願いした。京都の築二百年になる町屋の御宅の居間で、宮村先生の

ドストエフスキーと聖書を巡る談論風発があった。先生はまったく変わっておられなかったが、より

自由になられたように私は感じた。

 しかし、宮村先生の日本クリスチャン・カレッヂ時代の卒論がドストエフスキーの『悪霊』をテー

マとして書かれたことなど、私は全然知らなかった。宮村先生も私がドストエフスキーに興味を持ち、

家庭集会のテキストにしていたことに驚かれ、「神の時はこうしてピタリと合うのだ」と喜んでくださった。先生とのこの思わぬ再会がきっかけとなり、私は宮村先生のドストエフスキー関係の蔵書をいただくことになった。研究室の一角に若き日の宮村先生が読み込まれた米川正夫訳のドストエフスキー全集が、森有正や埴谷雄高などのドストエフスキー論が存在感をもって並び、これを読むようにと迫ってくる。そして、宮村先生の「卒論」を読ませていただいて一文を綴ることにもなった今、なにか摂理的なものを感じざるを得ない。

  3.『悪霊』に於ける人神論と神人論

 日本クリスチャン・カレッヂ時代のこの卒論を一読しての印象は、「栴檀は二葉より芳し」ということである。人神論と神人論の死闘に焦点をあて、ドストエフスキーの『悪霊』が神学的に考察されている。人神論とは、人が神になろうとする人の傲慢であり、神人論とは、人となられた神の謙卑である。この普遍的なテーマを問うために、ドストエフスキーの生涯を辿り、『悪霊』を概観し、シャートフ・キリーロフ・スタヴローギンの三人の人物を論じている。その上で、人神論と神人論を対決させて、論文は締めくくられている。宮村先生の神学校での講義に似て、テーマが次第に掘り下げられてゆく整然とした構成になっている。

 

序文に述べられた論文に取り組む問題意識を読んで、これは現在の私の問題だと思った。「牧会学

との関係」として、次のような成熟した考えが披歴されている。

 「矛盾に満ちた現実にあって生活する人間の問題を無視したり、軽視したりする、すなわち、広義

に牧会学を課題としない神学は、純粋な神学とは思われない。同時に、神学的考察のなされない生活

は人間の生活とは云えない。人は神学的考察を開始する時、すなわち絶対者の前に置かれた被造物と

しての自己を自覚する時、初めて人となる。」

 また、虚無思想の克服が問題だと述べられている。神の真実を信頼する者にとって、ニヒリズムはもっとも根底的な克服の課題であり、福音はその虚無をも前提しているという。すなわち、キリスト教の宣教は、一切のものに対する、そして自分自身に対する「終局的虚無の宣言である」というのである。

福音こそが被造物の虚無性を宣言しているのであり、その虚無の試練を経て、生きることの意味を超越者との関係において初めて与えられるのであるという。虚無を克服するそのような信仰というものを、ドストエフスキーの生涯と作品(『悪霊』に限る)を通して考察する、と宮村青年は記している。

私はこの論文を読みながら、ニヒリズムというものが自分自身をごまかさず、歴史的現実に向かい合

う時に必然的に経験せざるを得ないものであると確認させられた。四半世紀の間、牧師として一つの

教会で神と人に仕えさせていただき、精一杯尽くしてきたのだけれども、まさに矛盾を孕んだ現実に

打ちのめされ、しだいに虚無的な思いが自分の心の中に沈殿してきたことを否定することができない。

宮村論文は私をその不可避の問題に正面から向かい合わせてくれた。そして、むしろそのニヒリズム

に陥ったところから神学は始まるのではないかと励まされた。また、その問いをもってドストエフス

キーを時間をかけて読んでいこうとも思わされたのである。

 「ドストエフスキーは現実の苦難にもかかわらず、神の存在を認め得るか、神への信仰が可能であ

るかとの主題を生涯かけて、その作品に於いて追求したのである。神の存在との関連においてこそ、

苦難の問題は真の意味で問題とされたと云える。……逆説的ではあるが、彼は神の善意を全く信頼し

た故に最深部まで人間の矛盾を追及出来たと云えるのではなかろうか。」

  4.「主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ」

 『悪霊』は一八六九年にロシアで起こったネチャーエフ事件を下敷きにしている。世界革命組織を作ったネチャーエフらは高尚な理想とは裏腹に内ゲバによって自滅してゆくのである。その陰惨な事件を文学作品に結晶させたドストエフスキーの『悪霊』は、今も衝撃力を保って読み継がれている。日本では一九七二年の連合赤軍の浅間山荘事件の時にも、オウム真理教事件の折にも、百年前に現代を予言した作品として生々しく思い起こされた。

 

宮村青年の『悪霊』論は「神人論と人神論の死闘」に焦点が合わせられている。神人論とは、「神

が超越者でありながら人の子として人間に内在化される方向」 であるという。対するに人神論とは、「神人を否定し、その必然的結果として、自己神化(偶像礼拝)の落入るあらゆる観念を指すのである」 という。すなわち、神人論とは神が人となられたとするキリスト論であり、人神論とはそのキリスト論を否定して、自己を神と豪語する悪魔的な人間論である。その両者の対決を通して、そこに存在する神のリアリティーを、ドストエフスキーは作品『悪霊』において問うているというのである。

 『悪霊』もまたドストエフスキーの作品に共通して、多くの登場人物がカーニバル的な展開を見せ

るのだが、宮村青年はシャートフ・キリーロフ・スタヴローギンの三人に絞り込んで論じていく。

 シャートフは、革命組織から抜け出そうとして、同志によって殺害される人物である。彼は母国ロ

シアを神の地位にまで引き上げてしまっていて、その宗教的熱狂の内に人格神への信仰はみられない。

宮村青年は次のように評する。

 「ドストエフスキーはシャートフにおいて、宗教の形態をとった無神論、思想的偶像礼拝の本体を暴露し、これを徹底的に批判したのである。」

 キリーロフは、独特の人神思想を標榜しているが、同志殺害の罪を一身に背負ってピストル自殺する。

キリーロフは要請される観念として神を立てるが、生ける神を信じてはいない。彼は自死することに

よって神の観念を消し去る時、人は自由になって神になるという人神思想に立っている。その死に人

神論の完成はなく、「謙遜と後悔を忘れた人間の狂死といった面のみが強く感じられる」 というのである。

 スタヴローギンこそは『悪霊』の中心人物であり、美貌と才覚に恵まれた青年なのだが、その特徴

は徹底したニヒリズムである。奇行に走ったりもするのだが、何をしても本当の意味で生きていない

無感動な生き方の果てに、彼もまたみずから縊死するのである。スタヴローギンの虚無主義にドスト

エフスキーはロシア正教のチーホン僧正を対決させる。『悪霊』のクライマックスである。スタヴローギンはチーホンの前で神への信仰を巧みに装うことで、チーホンと神をこれ以上ないやり方で侮辱しようとする。スタヴローギンにからかわれながら、チーホンが囁くようにつぶやくのが、「主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ」という信仰告白であった。

 宮村青年はそのチーホン僧正の言葉を、論文の題名としている。神を信じるようでいて、己をこそ

神とする時代思潮の中で、どのようになじられようともキリストの十字架を恥じることはすまい。人

となられた神を見上げて生きたい。その告白こそが、人を神のように錯覚させて自滅させる「悪霊」

に対抗するものである。そんな宣言が重層的に聞こえてくるようであった。

 

この論文は正に実践神学を踏まえた神学論文であり、神なしとするこの時代に神を仰いで生きるこ

との難しさと決定的な意義を語っている。ドストエフスキーを読み込み、若き日にそう熱く語った宮

村青年のその後の人生は、ある意味で苦難と歩みを共にするものであられたと思う。しかし、齢を重

ねられ「喜びカタツムリ」を自称される楽しげな宮村先生の内に脈打っているのは、「主よ、汝の十

字架をわれ恥ずまじ」との生涯を貫く信仰告白なのである。

(東京基督教大学教授、宮村武夫著作刊行委員会・編集実務委員)

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